ビーイング系の特徴

ビーイング系の大きな特徴、それは、 にある。と前回述べた。
今回は、2つ目の作家陣による分業体制を取り上げる。

充実した楽曲提供

 ビーイング系のアーティストの多くが、作家陣の楽曲提供を受けた。 その比率はアーティストによりけりではあるが、彼らのヒットが作曲家、作詞家、編曲家によって支えられていたことは紛れもない事実である。
 まず始めに、デビューから96年までに各アーティストが出したシングルA面のうち、詞の提供、曲の提供を受けた数、及び、メンバー以外が編曲に携わった曲の数を表でまとめてみた。 (なぜ96年までなのかは後述する。)


シングルA面における提供曲の割合
\提供曲の割合 作詞 作曲 編曲
B'z 0% (0/20) 0% (0/20) 90% (18/20)
ZARD 0% (0/18) 100% (18/18) 100% (18/18)
WANDS 8.3% (1/12) 75% (9/12) 75% (9/12)
T-BOLAN 20% (3/15) 27% (4/15) 100% (15/15)
大黒摩季 0% (0/15) 6.7% (1/15) 100% (15/15)
DEEN 64% (7/11) 73% (8/11) 100% (11/11)
TUBE 30% (7/23) 35% (8/23) 39% (9/23)
FIELD OF VIEW 100% (6/6) 83% (5/6) 100% (6/6)
B.B.クイーンズ 100% (6/6) 100% (6/6) 100% (6/6)
Mi-Ke 100% (11/11) 100% (11/11) 100% (11/11)
MANISH 83% (10/12) 58% (7/12) 100% (12/12)
ZYYG 12.5% (1/8) 25% (2/8) 0% (0/8)
BAAD 0% (0/6) 67% (4/6) 83% (5/6)
PAMELAH 17% (1/6) 0% (0/6) 0% (0/6)
宇徳敬子 0% (0/8) 37.5% (3/8) 100% (8/8)
KIX-S 9% (1/11) 9% (1/11) 91% (10/11)

 この表を見て、特筆すべきことは、作曲家に楽曲提供を受けていないのが、B'zとPAMELAHのみであるということである。
 また、編曲家のアレンジを一切受けていないのは、ZYYGとPAMELAHのみであるが、ZYYGはビーイングの作家の代表格である栗林誠一郎が在籍していたので当然の結果と言える。 PAMELAHの小澤正澄も、楽曲提供の数はそこまで多くはないが、作家としての顔も持ちあわせており、ZYYGのパターンと同じと言える。 B'zやT-BOLANは編曲家と共作で編曲していることが多いために、数字が高く出ているので、他のグループとは少し事情が異なることを考慮する必要がある。
 作曲や編曲は裏方の作曲家、編曲家が担当していたのに対し、作詞はボーカルが手掛けることが多いのもビーイング系の特徴である。 よって、作詞の提供を受けた割合は低いグループ(作詞を提供する側)と高いグループ(作詞を提供される側)に分かれている。

 楽曲提供を受けていたことはここまででお分かりだと思うが、では実際に、どんな作家陣がいたのかを見ていく。


日本を代表するメロディーメイカーたち

 誰もが自ずと口ずさめるキャッチ―なメロディーを世に放った作曲家を紹介する。

織田哲郎

織田哲郎の画像
 まずは、何と言っても織田哲郎である。2022年現在でも、歴代作曲家シングル売上ランキングで堂々の第3位(約4180万枚)の実績をもつ日本を代表する作曲家である。 ビーイングの創業メンバーの1人であり、86年にTUBEに提供した「シーズン・イン・ザ・サン」を皮切りにビーイングを脱退した97年頃まで大ヒットを連発し続けた。 ビーイングブームの93年には、日本の作曲家史上初めて、年間売上が1000万枚を突破した。

織田哲郎のメロディーの特徴についてはこちら↓
10. 織田哲郎のメロディーの特徴
1993年の織田哲郎の記録についてはこちら↓
8. ビーイングブーム徹底解析その7 ~作家で見るビーイングブーム 織田哲郎編~

 端的に言ってしまえば「天才」の一言で済んでしまう…が、それでは記事にならないのでもう少し見てみよう。
織田哲郎の特徴は、ポカリのCMソングに代表される爽やかでメロディアスな曲調である。 とは言っても、爽やかな曲ばっかりというわけではなく、パッと聞いただけでは織田哲郎作曲とは分からない、広い守備範囲も持ちあわせている。 明るく万人受けする曲を提供することが多く、基本的には提供曲の大半がシングルとして採用されていた。 まあ、シングル曲を提供していたというよりかは、プロデューサー兼社長の長戸大幸が、送られた大量のデモテープから織田哲郎の曲をシングルとして採用していたと言った方が正しいであろう。 90年頃までは編曲も手掛けていたが、91年以降はその役割のほとんどをアレンジャーに譲った。
 日本人が好む歌謡曲の流れを汲む美しいメロディーと、洋楽由来のロックサウンドを融合させたメロディアスなロック(=ポップロック=JPOP)の礎を築いた。 これこそが織田哲郎の功績である。


栗林誠一郎

栗林誠一郎の画像
 織田哲郎ほどのメガヒットはなかったが、ビーイングに多大なる貢献をしたのが栗林誠一郎である。
ZARDでもアルバム曲やカップリング曲の提供が多く(もちろんシングルも結構ある)、どうしても二番手作曲家のイメージが強い彼だが、哀愁のあるメロディーを作ることに関しては彼の右に出る者はいなかったのではないだろうか。 80年代から、織田哲郎や亜蘭知子といった創業メンバーと共に、渚のオールスターズやTUBEのシングルに参加するなど、ビーイングからも期待をかけられていた。 ミリオンヒットこそなかったものの、その期待に応え、ビーイング系アーティストの活躍に多大なる貢献をした。
 またTUBEのベース角野が交通事故を起こし謹慎した際には、代役のベーシストとして番組収録やライブツアーにも参加した。 TUBEの他のメンバーに比べて一人だけ野暮ったい印象を受けたが…。それも栗林さんらしいと言えば栗林さんらしい。
 どちらかというと玄人好みな曲が多く、そういう意味ではうまく織田哲郎とうまく棲み分けできていたのだろう。Barbier(読み:バルビエ)という別名義で提供曲のセルフカバーもしていた。

栗林誠一郎のメロディーの特徴についてはこちら↓
11. 栗林誠一郎のメロディーの特徴
1993年の栗林誠一郎の活躍についてはこちら↓
9. ビーイングブーム徹底解析その8 ~作家で見るビーイングブーム 栗林誠一郎編~


川島だりあ

川島だりあの画像
 3人目は、元アイドルという異色の経歴を持つ作曲家、川島だりあである。 もともと「川島みき」という名前でアイドルをやっていた。アイドルと言いながら、男よりも女のファンの方が多かったとも言われいるが…。 しかも、80年のアイドル時代、93年までのシンガーソングライター時代、94年以降のFEEL SO BAD時代で見た目の変化が激しすぎる人でもある。金髪のゴリゴリなお姉さんになっていた時期もあったような…
 それはさておき、作曲家としては、栗林誠一郎以上に、アルバム曲やカップリング曲を中心に提供していた。 織田哲郎や栗林誠一郎は曲のみの提供であったが、川島だりあは詞の提供も結構やっている。「永遠をあずけてくれ」とか「思い切り笑って」など、素晴らしいフレーズを提供してくれていた。 川島だりあで一番有名なのは、死後のファン投票(←信頼性に欠けるが…)で1位選ばれたこともある「あの微笑みを忘れないで」(ZARD)だろう。最初に聞いた時は、織田哲郎の作曲だと勝手に思い込んでいた。 それだけ川島だりあも素晴らしいコンポーザーであるということの証左であると言えよう。


多々納好夫

 4人目は多々納好夫である。
 多々納好夫と聞いてピンと来る方は少ないだろう。(このサイトにたどり着いた人は知っている方が多いかもしれないが…) 最大のヒット曲はWANDSのブレイク曲「もっと強く抱きしめたなら」であり、約166万枚の大ヒットとなった。 他にも、Field of Viewの「Last Good-bye」や宇徳敬子の「愛さずにはいられない」など、地味にいろんな作品を提供している。たまにとびぬけてキャッチ―なメロディーを生み出す活躍をした。


日本を代表するアレンジャーたち

 優れたメロディーイメイカーがいくらいても、優れたアレンジャーも同様にいなければヒット曲は生み出せない。 ここからは、ビーイングの3大編曲家を紹介する。俗に”ビーイングサウンド”と呼ばれるシンセを多用しつつ、ギターを重ねた重厚なロックサウンドを作曲家とともに生み出していた。 音楽に詳しい人からは、音圧が強いとか飽きやすいとかも言われるが、このハードで主張の強い、だけれども、メロディーを際立たせるサウンドこそがビーイング系がビーイング系たる所以だと思う。


明石昌夫

明石昌夫の画像
 1人目は明石昌夫である。明石昌夫は阪大基礎工学部卒というまたなんとも異色の経歴をもつ音楽家である。 楽器なんていうのは、まさしく電子機器なので、”こういう周波数成分は人間の耳にはこう響く”といったような、楽器の電子機器としての側面への知識や考察が深い。 幼少期にバイオリンを習っていたが、本人はちゃんとした音楽教育を受けていない(音楽大学や音楽の専門学校を出ていない)と言っており、ストリングスの編曲に際しては、後述する池田大介に力を借りていた。 オーケストラヒット(オケヒ、オケヒットとも)を効果的に用いる手法を確立した。明石昌夫の曲は、重低音やギターサウンドのアレンジが素晴らしいと素人ながら感じる。

明石昌夫のアレンジの特徴についてはこちら↓
12. 明石昌夫のサウンドの特徴
1993年の明石昌夫の活躍についてはこちら↓
10. ビーイングブーム徹底解析その9 ~作家で見るビーイングブーム 明石昌夫編~


葉山たけし

葉山たけしの画像
 明石昌夫と並んで、ビーイングのアレンジャーの双璧をなしていたのが、葉山たけしである。 もともとはアメリカンロックに傾倒しており、織田哲郎のサポートギタリストをしていた。ビーイングに入ってから編曲も担うようになった。 長戸大幸が明石昌夫の編曲を気に入ったが、次第に明石昌夫1人では手が回らなくなり、葉山たけしに白羽の矢が立ったわけである。 そういった経緯から、明石昌夫の編曲を模倣するように始めは言われていたので、始めは明石昌夫と同じようなオケヒを多用した編曲が多かったが、 次第に葉山色が強くなっていき、ギターも重低音を響かせるというよりは、メロディアスなギターフレーズが際立つ曲だったり、爽やかなロックだったりを得意としていた。
 ちなみに記録面では、93年、94年と2年連続で年間編曲家売上ランキングで第1位に輝いた。(明石昌夫は共作が多いためにこのようなランキングでは不利なので、あくまで記録上の話ではあるが…)

葉山たけしのアレンジの特徴についてはこちら↓
13. 葉山たけしのサウンドの特徴
1993年の葉山たけしの活躍についてはこちら↓
11. ビーイングブーム徹底解析その10 ~作家で見るビーイングブーム 葉山たけし編~


池田大介(池田大輔)

池田大介の画像
 3人目は池田大介である。明石昌夫、葉山たけし両名に比べると、ヒット数や編曲数は劣るが、明石昌夫がアレンジをやらなくなった95年頃以降は、葉山たけしとともにビーイング全盛後期の曲作りを支えた。 葉山たけしの場合と同様で、もともとは明石昌夫の編曲を真似るように言われていたらしい。 明石昌夫曰く、「池ちゃんはちゃんとした音楽の専門学校を出ている」とのことで、ストリングスを使った編曲にはビーイングで最も長けていたようである。 この3名の中では最もシンプルなバンドサウンドに近い編曲をする人で、特に繊細な曲や上品な(ビーイングの中で)曲で池田大介の良さを感じられるように思う。 また池田大輔と表記されることもある。


作詞家と詞の提供をしたボーカル達

 最後に作詞についても見てみる。

作詞家としての上杉昇と坂井泉水

上杉昇の画像 坂井泉水の画像

 詞の提供を行っていたビーイングの2大ボーカルがWANDSの上杉昇とZARDの坂井泉水である。 DEENは両者からの提供を受けているし、MANISH、ZYYG、Mi-Keが上杉昇から、FOVが坂井泉水からの提供を受けた。 織田哲郎は、上杉昇のことを「上杉君は詩人として天才」と評しており、最大級の賛辞を送っている。歌詞ではなく歌詩。天才作曲家にそう思わせるだけの上杉昇は恐るべき作詞家でもあるのだ。 一方、坂井泉水のことも、「坂井さんはコピーライティング能力が優れていた」と評しており、「サビの頭にキャッチーな言葉を乗せてくれた」「これはポップスを創る上ではとても大事なこと」と評している。 この二人の才能が、ボーカルが作詞をするものという流れを生み出したのではないだろうか。
織田哲郎のインタビュー記事。上杉昇と坂井泉水の作詞について語っています。


亜蘭知子

亜蘭知子の画像
 さらにもう一人、ビーイングの作詞家を語る上で欠かせないのは、亜蘭知子である。 彼女もまたビーイング創業メンバーの1人であり、黎明期に活躍した。彼女自身もシティポップの歌い手として活動し、30年以上経った2020年代に(特に海外から)評価され始めている。 織田哲郎とのコンビでTUBEに数多くの名曲を提供した。他にも、関ゆみ子の「ゆめいっぱい」の作詞でも有名である。 またB'z唯一の稲葉以外の作詞曲「nothing to change」も亜蘭知子が書いている。


 他にも、先述の通り、川島だりあも作詞家として様々なアーティストに提供していた他、長戸大幸自らもB.B.クィーンズやMi-Keに多く提供していた。 さらにマイナーなところで言えば、小田佳奈子はあらゆるアーティストに作詞提供していた。詞を提供した数で言えば最も多いのではないだろうか。 名前だけの紹介に留めるが、大黒摩季や向井玲子、牧穂エミも作詞家として活躍した。



ビーイングサウンドの結末

 他にも、PAMELAHのギタリスト小澤正澄や、2022年現在でもZARDのディレクターを務める(SARD UNDERGROUNDも務めている)寺尾広といった面々も楽曲提供を行っていた。 WANDSの初期メンバーの大島康佑も作編曲でさまざまなアーティストに関わっているが、作品数はそれほど多くはない。 また、97年以降は小松未歩、徳永暁人、大野愛果など作曲家・編曲家も活躍した。

 しかしながら、やはりビーイングの屋台骨であり、ビーイングサウンドを支えていたのは、織田哲郎・栗林誠一郎・明石昌夫・葉山たけし・池田大介であった。 96年以降に明石昌夫が編曲をやらなくなり、97年に織田哲郎がビーイングを脱退、98年に栗林誠一郎が突如として表舞台から姿を消した。2000年頃には葉山たけしもビーイングを脱退した。 このように97年以降はビーイングを支えた作家陣が次々といなくなったため、ビーイングサウンドは徐々に崩れていき、ビーイング系の売上も急減していった。 事実、97年以降、B'z以外のビーイング系アーティストのシングルのミリオンセラーはパッタリとなくなってしまった(GIZA系を除く)。 冒頭で載せた表を96年までとしたのは、こういう理由からである。

 今回は作家陣による分業体制を紹介した。もちろんシンガーも素晴らしかったのは間違いないのだが、ヒットを次々と生み出した裏には、こういった縁の下の力持ちが数多くいたことも忘れてはならない。


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