B'zとWANDSはどこで差がついたのか?
全盛期には音楽界を席巻するくらいの勢いを有していたB'zとWANDS。B'zは現在(2023年)もオ〇コン週間チャートで首位を獲得できるくらいのアーティストパワーを有している一方で、解散に追い込まれたWANDS。その”差”はなぜ生じたのか?
B'zとWANDSの差
まずはじめに結論から述べたい。B'zとWANDSの差がついた要因には次の3つが挙げられる。- メンバー内にプロデュース能力のある人がいたか?
- 自作曲で売れたか?
- 若すぎなかったか?
メンバー内にプロデュース能力のある人がいたか?
1つ目の要因はメンバー内にプロデュース能力のある人がいたか、すなわち、セルフプロデュースの能力があるかどうかである。 プロデュース能力を具体的に述べると次のような要素がある。- やりたい音楽と売れる音楽の調整
- コンセプト
- セールスへの介入
1. やりたい音楽と売れる音楽の調整
B'zの初期のプロデューサーと言えば、形式上は中島正雄であったが、実際は松本孝弘もかなり関与していたと推察される。さらに、ブレイクした3年目の1990年の秋(「Easy Come, Easy Go!」以降)には、松本孝弘によるセルフプロデュースに移行している。 当時アレンジャーを務めていた明石昌夫も、自身のYouTubeにて、「海外の売れているバンドにはだいたい一人は弁護士などと話のできるメンバーがいる。」と語っており、「B'zで言えば松本さんがそうであった。」と述べている。「なんだそんなことが重要なのか」と思われるかもしれないが、メンバー自身が責任をもって問題に向き合ったり、方向性を思案し共有することは、長く活動を行っていく上では非常に大切だと思う。B'zの場合、松本孝弘によるプロデュース能力が高く、メンバーが最小人数である二人であるということも相まって、メンバー自身によるコントロールがよく効いていた。初期は中島正雄 (画像はビーイング代表を務めていた00年代初頭に撮影) |
セルフプロデュースへ移行 (左:松本孝弘が担当) |
時期:1988年~1990年 | 時期:1990年~ |
一方でWANDSの場合、メンバー内にセルフプロデュースのできる者がおらず、プロデューサーは長戸大幸・中島正雄で、その指示の下で活動していた。最後まで、セルフプロデュースに移行することはなく、プロデューサーと対立する形で上杉昇と柴崎浩の脱退に終わってしまった。
プロデューサー長戸大幸
商業的成功を命題とするアーティストにおいて、プロデュースワークの最大の役割は、”自身のやりたい音楽”と”ファンが求める音楽”のすり合わせであろう。
B'zの場合、TM NETWORKの系譜を継ぐユニットとして活動を開始し、ポップ色の強い楽曲とロック色の強い楽曲のリリースを上手く繰り返しながら、徐々にロック色を強めていった。ファンが求める楽曲も制作しつつ、ファンが付いてこれる程度に、自身のやりたい音楽性を追求していった。これは非常に難しいことであり、ここにプロデューサーとしての松本孝弘の非凡な能力を感じる。B'zの商業的成功は松本のプロデュースワークあってこそであり、称賛するほかない。
WANDSの場合、95年2月リリースの「Secret Night ~It's My Treat~」でいきなりグランジ路線に舵を切り、多くのファンがついてこれなかった。メンバーの「やりたい!やりたい!」という向こう見ずな感情だけで、音楽性を一気に変化させてしまったWANDSと、計画的に音楽性を変化させていったB'zでは、結果に大きさ差が出るのは当然と言えよう。
急激にグランジ路線に舵を切った9thシングル
「Secret Night ~It's My Treat~」
2. コンセプト
作品にコンセプトがあったかどうかも重要な要素である。B'zの場合、明石昌夫が度々自身のYouTubeで
「(フルアルバムで考えると、)
1枚目「B'z」でB'zってこんな感じ(ユーロビート)というのを提示
2枚目「OFF THE LOCK」で全曲シングルでもいけるクオリティーのキャッチ―なものをリリース
3枚目「BREAK THROUGH」でライブ用に掛け合いなどの多い楽曲を制作
4枚目「RISKY」で思いっきりロックに振って
5枚目「IN THE LIFE」でポップでキャッチーに振って
6枚目「RUN」でもう一回ロックに振って
7枚目「The 7th BLUES」で世界的なHRのブルースへの回帰の流れに合わせてブルースに振った
というように明確なコンセプトがあった」
と証言している。
アルバムのコンセプトの話(23:42~)
実際、コンセプトに合わないシングルは大ヒット曲でもアルバムからは容赦なく外し、アルバムのコンセプトを非常に重要視していたことが分かる。
No. | アルバム | 明石昌夫が証言したコンセプト |
---|---|---|
1 | B'zってこんな感じ(ユーロビート)というのを提示したアルバム | |
2 | 全曲シングルでもいけるクオリティーのキャッチ―なアルバム | |
3 | ライブ用の掛け合いなどの多い楽曲のアルバム | |
4 | 思いっきりロックに振ったアルバム | |
5 | ポップでキャッチーに振ったアルバム | |
6 | もう一回ロックに振ったアルバム | |
7 | 世界的なHRのブルースへの回帰の流れに合わせてブルースに振ったアルバム |
WANDSの場合、2ndアルバム「時の扉」のリリースの際のインタビューで上杉昇本人が「特にコンセプトはなく制作にあたりました。」と語っているように、コンセプトというよりも場当たり的に作っていった感が否めない。「PIECE OF MY SOUL」に関してはグランジ路線というコンセプトをある程度持っていたようだが、ただやりたいことをわがままに貫き通しただけで、総合的なサウンドプロデュースに関してはメンバー自身よりもアレンジャーの葉山たけしの手腕によるところが大きいように思う。
コンセプトは無かった | 葉山たけしのサウンドプロデュース手腕が光った |
3. セールスへの介入
3つ目の要素はセールスへの介入である。要は、メンバー自身が作品のセールスに対してどの程度介入していたかである。インディーズレーベルなら音楽だけのことだけを考えていれば良いのかもしれないが、メジャーレーベルに属している限りは、やはり現実的にどうやって所属レコード会社や事務所が利益を生み出していくかに関しても関わらざるを得ない面があるだろう。B'zの場合、「デビューから3年以内に週刊オ〇コンチャートの左側のページ(1位~50位)に掲載される」という明確な目標を掲げてスタートした。2ndアルバム「OFF THE LOCK」までは、松本孝弘も明石昌夫も「売れよう」と思うあまり、自分達のやりたい音楽ではなく、売れるための音楽をやっていたと明石昌夫が述懐している。他の記事でも何度も述べているように転機になったのが2枚目と3枚目のフルアルバムの間にリリースされた1stミニアルバム「BAD COMMUNICATION」である。 明石昌夫曰く、これを機に「やりたいことをとことんやって、その上で売れるようにやろう」ということになったらしい。ここで重要なのは、「やりたいことをとことんやる」というだけでなく、その上で「売れる音楽」つまり、「リスナーに受け入れてもらえる音楽」を訴求していたことである。やはり、やりたいことをやりつつも、セールスというものを気にしながらの活動であったことが読み取れる。
明石昌夫のYouTube動画
もう一つ有名なエピソードを挙げると、ハードロック色が強くなった11thシングル「ZERO」の発売時に、松本孝弘がインタビューで「これをシングルにするのは大きな博打」「結果が出てからすべて話す」と述べたという話がある。このエピソードからも、「売れて多くの人に聴いてもらってナンボ」というセールスに対する認識を垣間見ることができる。
ハードロック色が強くなった11thシングル「ZERO」
WANDSの上杉昇の場合、セールスに対する意識が強かったようには思えない。むしろかなり低かったようである。というのも、2ndアルバム「時の扉」発売頃のインタビューで、先行シングルが大ヒットしたことに対し
「あんまり昔から、数字的なものに興味がなかったっというか。別に1位になるために音楽やってきたわけじゃないし。デビューを目的としたりチャートで1位になることを目的としてたら、その目標がかなった時にやることがなくなって消えていっちゃうと思うんですよ。そういう部分で音楽やっているわけじゃないから、プレッシャーっていうのはなかったです。どちらかというと自分のためにやってるってほうが強いから。嬉しいなっていうのはありましたけど。戸惑いは俺はなかったですね」
2ndアルバム「時の扉」の頃の上杉昇と柴崎浩
と述べている。売れるということに執着しなかった上杉昇が、産業ロックあるいは商業ロックとも揶揄されるビーイングに所属したことは非常に皮肉的である。 また、「世界中の誰よりきっと」や「もっと強く抱きしめたなら」が大ヒットした頃は、テレビに出演する度に、若い女の子から黄色い声援を浴びていた。このアイドル的な扱いに、デビュー前に思い描いていた理想像とのギャップを感じたのではないだろうか。上杉昇の中では、「売れること」=「黄色い声援を受けること」という方程式が頭の中で出来てしまい、売れることそのものさえ否定していたのかもしれない。ここが、当初はアイドル的な売れ方をしてもなお、我慢して成功を掴んだ稲葉浩志との差であろう。
黄色い歓声を受けていた頃のテレビ出演動画
(93/03/20のCOUNT DOWN100)
自作曲で売れたか?
自作曲で売れたかどうかというのも大きい。自作曲でブレイクし全盛期を迎えたアーティストは、全盛期が終わっても、音楽性が変化することがあまりないため、緩やかにファンが離れていくことが多い。(B'zはこのタイプに該当。)しかし、自作曲で全盛期を迎えても、作曲・編曲担当のメンバーが脱退してしまうと音楽性が変わり、ファン離れが加速することが多い(ELT、ビーイング系で言えばZYYGなど)。
栗林誠一郎(Ba.)が脱退 | 五十嵐充(Key.)が脱退 |
一方で、楽曲提供を受けて全盛期を迎えた場合、楽曲提供者が変わったり、自作曲に移行したりした際に、音楽性の変化から急激にファンが減る可能性が高い。ビーイング系はお抱えの作曲家・編曲家による楽曲提供が多いため、このパターンに当てはまるアーティストが非常に多い。例えば、楽曲提供者が変わったタイプはZARDくらいだが、自作曲に移行したのは、WANDS、DEEN、TUBE、FIELD OF VIEW、宇徳敬子などがいる。しかし、この中で自作に移行して成功したのはTUBEくらいで、その他のアーティストは自作曲に移行して、楽曲のクオリティーが落ちたり、音楽性が変化したりして、売上が減少してしまった。
WANDS | DEEN | TUBE | 宇徳敬子 |
94/06/08 122.1万枚 | 95/12/04 23.4万枚 |
最後まで自作曲に移行しなかったZARDは、質の高い楽曲の提供を受け続けられたため、ビーイングの中でもB'zに次ぐ成功したアーティストとなったが、97,8年頃からの相次ぐ作編曲家陣のビーイング脱退の影響を最も強く受けてしまった。それ故に、98年以降は楽曲の質も低下した上に、ZARD自体が迷走してしまった。 このように、ZARDような楽曲提供を受けるスタイルを貫く場合、クオリティーの高い作曲家・編曲家がアーティストのキャリアの最後まで提供し続けることができるかが非常に重要なのである。
織田哲郎 | 栗林誠一郎 | 明石昌夫 | 葉山たけし |
若すぎなかったか?
最後の要因は若すぎなかったかというものである。若すぎるというのは諸刃の剣なのだ。アーティストが活動していく上で長い目で見る力というのはかなり重要だ。先述のように、B'zはデビューから3年以内に週刊オ◯コンチャートの50位以内に掲載されるという3か年計画を立てた。このように、ある程度長い目を持って制作活動に取り組めたかどうかは大きい。それには、若すぎないことが必要なのではないかと思うわけである。人間誰しも、若すぎるとどうしても勢いに任せてしまう節がある。その点で言うと、B'zの場合、デビュー時(1988年)の年齢は松本孝弘が27歳、稲葉浩志が24歳と年齢が高い。特に松本孝弘はTMNのサポートミュージシャンなどですでに10年近くのキャリアを積んでいた。それ故、全盛期を30代で迎えている。
一方で、WANDSの場合、デビュー時(1991年)での年齢は、上杉昇が19歳、柴崎浩が22歳、大島康祐が21歳という若さであった。若くして才能を開花させたのは、本当に素晴らしいことなのだが、その若さが仇となり、WANDSの脱退劇につながった節があるように思う。もし、もう少し上杉昇が若くなければ、黄色い歓声を受けても、数年後にはそういうファンは減り、本当に音楽性を理解してくれるファンがついてくれるはずだと我慢できたかもしれない。
年 | B'z | WANDS |
---|---|---|
デビュー時 | 松本孝弘:27歳 稲葉浩志:24歳 |
上杉昇:19歳 柴崎浩:22歳 大島康祐:21歳 |
ビーイングブーム(93年)時点 | 松本孝弘:32歳 稲葉浩志:29歳 |
上杉昇:21歳 柴崎浩:24歳 木村真也:24歳 |
WANDS脱退(96年)時点 | 松本孝弘:35歳 稲葉浩志:32歳 |
上杉昇:24歳 柴崎浩:27歳 木村真也:27歳 |
90年代当時のライブ映像を見ても、稲葉浩志がストイックな鍛練を積んだ上でライブに臨んでおり、圧倒的なパフォーマンスなのに対し、上杉昇はライブに向けた練習量が足りないのか、息切れしたり、がなるように歌ったりしており、そのあたりにもプロ意識の差が見える。主観的ではあるものの、上杉昇は若さ故の勢いに任せてライブに臨んでしまったという印象を筆者は抱かざるを得ない。
今回は、B'zとWANDSの差がどこでついたのかを解析した。B'zとWANDSの差を決定づけたこれ!といった顕著な要因があったわけではないと考える。しかし、以上の複数の要因が重なった結果、片や日本のトップに、片やメンバーの脱退という非常に対照的な帰結をむかえてしまったのだろう。
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