ビーイングブーム徹底解析 その2

~ビーイングブーム前夜(90年)~

 今回はビーイングブーム徹底解析の第2弾として、ビーイングブーム前夜について取り上げる。まずは、1990年。


1990年の年間ランキング

 TUBEが前年から完全自作に移行。B'zが一昨年にデビューし、前年にミニアルバム「BAD COMMUNICATION」をリリースしている。
 そのような状況下で迎えた1990年。まずは、1990年から。シングルとアルバムの年間順位を表にまとめてみた。

90年の年間シングルTOP100
順位 シングル名 アーティスト名 年間売上(万) 発売年月日
1位 おどるポンポコリン B.B.クィーンズ 130.8 90/4/4
27位 太陽のKomachi Angel B'z 31.4 90/6/13
28位 Easy Come,Easy Go! B'z 30.1 90/10/3
48位 あー夏休み TUBE 23.6 90/5/21
60位 BE THERE B'z 19.7 90/5/25
62位 愛しい人よGood Night… B'z 19.3 90/10/24

90年の年間アルバムTOP100
順位 アルバム名 アーティスト名 年間売上(万) 発売年月日
21位 WICKED BEAT B'z 43.5 90/6/21
26位 RISKY B'z 40.9 90/11/7
29位 BAD COMMUNICATION B'z 36.3 89/10/21
42位 COLORS 浜田麻里 29.4 90/9/20
49位 BREAK THROUGH B'z 26.4 90/2/21
57位 Sincerely 浜田麻里 23.9 89/12/16
66位 TUBEst TUBE 20.5 89/12/21
76位 N・A・T・S・U(初回盤) TUBE 16.9 90/6/15
80位 N・A・T・S・U TUBE 15.6 90/6/15


予想だにしないメガヒット

 この年はなんといっても、「おどるポンポコリン」の大ヒットである。織田哲郎にとってTUBEへの提供曲以来の大ヒットであり、初のミリオンセラー獲得作品である。ちなみに、意外にもビーイング系がシングルで年間1位を獲得したのは「おどるポンポコリン」のみである。

 ”B.B.クィーンズ”のメンバーの紹介はここでは省略するが、端的に言えば、”渚のオールスターズ”に続く企画ユニットである。企画ユニットというだけあって、ボーカルの坪倉唯子と近藤房之助は変装しているなど、半分お遊びであった。 そして、おどるぽんぽこりん自体も、作曲はビーイングの主力作家てある織田哲郎ではあるが、織田哲郎は「メロディー自体は1分くらいでできた。だから、そういう意味では何の思い入れもない。さすがに、アレンジは時間かけてじっくりとやったけどね。」と語っており、とても気楽に作ったことが本人の発言からも伺える。 さらに、詞は"ふざけている"としか言えないが、「ちびまる子ちゃん」の原作者であるさくらももこの作詞である。 このように、一流の作曲家と一流の漫画家、一流シンガーに一流のプレイヤーが集まって、本気でふざけた結果が「おどるぽんぽこりん」なのである。

おどるポンポコリンジャケット写真 浪漫飛行東日本
浪漫飛行東日本版
浪漫飛行西日本
浪漫飛行西日本版

 ちなみに、この曲は、2位以下にダブルスコアの大差で年間1位を獲得したことになっている。しかし、実際は、2位にランクインしている米米CLUB「浪漫飛行」(約60万枚)は、東日本で発売された分のみとなっており、西日本版が約40万枚を売り上げて17位にランクインしているため、実際には、100万枚あまり売れた。 これは、東日本版と西日本版で別集計となるという集計上のルールのためである。 


一足早くヒットし始めたB'z

 B'zは前年にミニアルバム「BAD COMMUNICATION」をリリース。3枚目のフルアルバムヒットのための布石という位置付けだったため、ミニアルバムという形で実験的な内容になっている。 TMNの系譜を継ぐユーロビートを中心としたダンスミュージックとメンバーやアレンジャーの明石昌夫が好きだったハードロックの融合を試みている。
 1枚目、2枚目のフルアルバムがそれぞれ初登場48位、35位と低迷していたが、本作は初登場15位を記録した後、じわじわと売れ続けた。 そのため、売れ線を意識しすぎてやりたいことが出来ていなかった松本孝弘と明石昌夫は、「まずは自分達がやりたいことをやらないと売れない」ということに気付き、この後は、自分達のやりたいように楽曲を作っていく転機になった。
 そして、90年に入ってから発売したシングル、アルバムは軒並みヒットを放ち、翌年のブレイクへの予兆が感じられる。 この年は4枚のシングルに、2枚のフルアルバム、1枚のミニアルバムをリリースし、しかもどのシングル・アルバムも20~40万程度売り上げてきており、一発当たったというわけではなく、着実に人気と実力をつけつつあったことが分かる。 B'zにとっては、飛躍へのきっかけをつかみ、"攻めの1年"だったことが伺える。


真の実力を試されたTUBE

 TUBEはこの年、1枚のシングルと1枚のアルバムをリリース。80年代は1年に2枚もアルバムを出していたことを思えば、かなりじっくりと時間をかけて制作にあたったと言える。

 「あー夏休み」は完全自作に以降してから3作目のシングルで、この時点で最大の売上であった「シーズン・イン・ザ・サン」は超えられなかったものの、CDの時代に変わってきたことも相まって、それまでの2番目ヒットであった「SUMMER DREAM」を上回った。 ギターの春畑は、この時期、曲をかいてもかいてもプロデューサーにボツにされていたため、自分の曲の良さが分からないなんてと憤慨したらしい。 織田哲郎、亜蘭知子と作り上げた夏のイメージを生かしつつ、自分たちのやりたいように出来てきたのが90年頃である。 そうは言っても、作家による提供を受けていた期間が長いため、実質的には2年目(数字上は6年目)で、作曲や編曲に関してはまだまだ発展途上であり、TUBEの方が知名度はあったはずだが、B'zに売上では既に負けている。

 「あー夏休み」はプロデューサーになかなか認められなかった腹いせにエセ関西弁まで使っおり、やりたい放題やっている。しかし、やりたい放題にやったことがある程度のヒットに繋がったため、メンバーにとっては自信になったに違いない。


時代を捉え始めたビーイング

 この年、躍進し実績を残したB.B.クィーンズ、B'z、TUBEの3組に共通して言えることは、”やりたいことをやりたいようにやった結果ヒットにつながった”ということである。
 これは、曲を作った織田哲郎や松本孝弘、春畑道哉、明石昌夫といった当事者だけでなく、長戸大幸をはじめとするプロデューサーにとっても大きな影響を与え、ビーイングという会社にとっても大きな転機になったであろう。 ”まずは自分たちがやりたいことを、楽しいと思うことを、かっこいいと思うことをすれば、世の中に支持される”ということに気付いたことが、その後のビーイングブームにつながっていくのである。
 その証拠に、91年以降はB.B.クィーンズから派生したMi-Keが往年の"グループサウンズ"をオマージュ(曲は織田哲郎が遊びで作ったもの)して、長戸大幸や織田哲郎の音楽的なルーツを体現していくし、ROYAL STRAIGHT SOULという企画カバーアルバムも発表するなど充実した時期を迎える。


 次回は、THEビーイング系といえるZARD,WANDS,T-BOLANなどがデビューした91年を取り上げる。


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