T-BOLANはなぜ完全復活できたのか?

 今回はT-BOLANと他のビーイング系バンド・ユニットを比較しながら、なぜT-BOLANは完全復活に至ることができたのかを分析する。

T-BOLANが完全復活できた理由

 まず、結論から述べよう。T-BOLANが完全復活できた理由は大きく分けて以下の4つの要素がある。 以下では各要素について詳しく解説する。


森友の病気による志半ばでの解散

 ビーイング系アーティストは、プロデューサー主導で結成されたバンドが多いため、金銭的な問題や音楽的志向の問題・権利関係の問題のために、解散したり、メンバーが入れ替わったりするバンドが多かった。 一方で、T-BOLANはプロデューサー主導でないバンド(学生時代からの付き合い)であったことから、特にそういった問題が生じて解散に至ったわけではない。 94年以降に森友が心因性発声障害を患ったために、新曲が発表できないばかりかライブもできなくなってしまった。

 ライブで言えば、ツアー最終公演であった1995/3/26の大阪厚生年金会館(現・オリックス劇場)公演では、ドクターストップがかかりライブ当日の会場で公演中止の発表をするも、会場に来たファンの声援に応えてライブを強行したというエピソードがある。しかし、不完全燃焼に終わってしまったため彼らの中には忸怩たる思いが残っていた。そこで、19年ぶりのT-BOLANとしてのライブを2014/3/8に同じオリックス劇場で”続き”として行うことになった。

 レコーディングで言えば、1995/11/20発売の14thシングル「愛のために愛の中で」のレコーディングには1年近くを要したことが本人らから明かされている。当時は病名が分からなかったため、少し体調が優れないだけで次の日になれば、声が今までのように出るのではないかという楽観的・希望的な思いがあった。森友と五味の二人でほとんど毎日のようにスタジオに通ってレコーディングを試みたが、ついに声がうまく出る日は来ず、結局、最初の仮歌が製品に採用された。

 このようなライブもレコーディングもできないという状況下で、96年には2作のベスト盤の発売をして”新作までの時間稼ぎ”をするなどしたものの、それでも未来を見通せない以上は、区切りをつけざるを得ず、99年にメンバーが望まない形での解散に至った。それ故、メンバーが未練を残したまま解散するという結果になったのである。


元々はバンド仲間

 B'z,WANDS,DEEN,ZYYGなどの他のビーイング系アーティストとは異なり、元々バンド仲間だったという点でT-BOLANは異色である。前回の記事で触れたように、T-BOLANのメンバーは大学時代からの音楽仲間であり、単なるビジネス上の付き合いではなかった。だからこそ、一度は解散して年を取っても、もう一回集まろうとなったのだろう。


事務所との良好な関係

 T-BOLANと対照的な存在として想像に容易いのがWANDSである。WANDSは長戸Pをはじめとする事務所サイドと対立して脱退するという帰結を迎えたわけだが、T-BOLANは事務所と良好な関係を築けていた。

 アーティストにとって自ら書いた曲がヒットするというのがなによりの喜びなのではないかと思う。だから、アマチュアと大差のないようなバンドであっても自ら曲を作りたがるのだろう。
 T-BOALNは不良っぽい見た目をしているが、そのあたりの”我慢”ができるアーティストであったと思う。第2回のBAD(Being Artist Development)オーディションを経てビーイングに入り、年間100本以上のライブをこなしてきたバンドでありながら、3年以上かけてやっとつかみ取ったメジャーデビューの曲を、自作曲ではなく提供曲で納得したあたりすごい忍耐力だと感心させられる。

 その後、自作曲の5thシングル「じれったい愛」でブレイク、6thシングル「Bye For Now」でミリオンヒットと順調に人気と実力をつけていった。それは1993年発売の4thアルバム「HEART OF STONE」のサウンドプロデュースを森友嵐士が任されていることからも読み取れる。さらに次作の5thアルバム「LOOZ」では、(サウンドだけでなく)完全なプロデュースを森友嵐士が務めており、長戸Pからの信頼を完全に得ていたことが分かる。
 また、青木や上野は、解散後もしばらく(2000年代初頭くらい)は大阪に移ったビーイング(Giza)にいたようなので、解散後もビーイング内でなにかしらの裏方業務を行っていたと考えられる。


上野のくも膜下出血

 2014年に1995年のライブの”続き”を行うことで、未練を断ち切った彼らだが、期間限定で復活を繰り返すことはあっても完全復活とはならなかった。

 しかし、2015年の上野博文のくも膜下出血とそこからのリハビリが大きな契機となって、T-BOLANは完全復活に至った。皮肉なことではあるが、もし上野がくも膜下出血で倒れていなければ、継続的な活動再開には至らなかっただろう。
 森友の病の際には、五味がレコーディングにも声が出るまでのリハビリにも付き合い、上野が集中治療室で意識を失っていたときには、森友・五味・青木が見舞って、青木と上野の二人のバンドの音を聞かすなどした。このような本当の絆がT-BOLANの真骨頂と言えるだろう。その甲斐あって、倒れてから3ヵ月後に奇跡的に意識が回復した。
 上野のくも膜下出血を経て、4人でステージに立てることの貴重さや喜びを感じたに違いない。


 現在はDr.の青木和義が一時活動休止しているが、再び4人での完全復活を期待してこの記事をしめくくる。


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